VdGG History 第2回 |
バンドは再び動き出した。本格的な再デビューを意図して、マネージャのトニー・ストラットン・スミスは自らレーベル『カリスマ』を設立し、その目玉としての「二人のピーター」との契約を結んだ。ハミルとガブリエルである。VdGGとして最初の仕事は2ndアルバムだが実質的なデビュー・アルバムとも言える「The Least We Can Do is wave to Each Other」 (1970)を録音することだった。この録音は1969年12月に行われている。「エアロゾル」製作からほんの半年後のことである。
活動再開に当たって、ピーターはヒューとガイをまず誘った。ガイは当時加入していたミスアンダーストゥッド(Misunderstood)からベーシストのニック・ポッター(Nic Potter)を8月に、そして、カリスマのオーディションを受けていたジャッジ・スミスのバンドであるヒーバロブ(Heebalob)からサックス、フルートのデヴィッド・ジャクソン(David Jackson)が9月に、バンド参加することになった。
アルバムは全6曲、トライデント・スタジオでジョン・アンソニーのプロデュースによって製作された。ジャケットのデザインはバンド自身だ。タイトルは、ミントン(John Minton; 1917-1957; UK, 画家、詩人)の言葉からの引用。アルバムに先行してシングル「レフュジーズ/ボート・オブ・ア・ミリオン・イヤー」が発売されている。
続く3rdアルバム「H to He, Who Am the Only One」 (1970)は1969年の春から1970年の秋にかけて行われた。つまり「The Least We Can Do Is Wave To Each Other」と、PHによる先行した録音も含めて、バンドとしては、前作と同じトライデント・スタジオで並行するような形で録音が行われたということになる。バンドは、レコーディング中にベースのニック・ポッターが脱退。全5曲中2曲は4人だけでの録音である。ニックの代わりにヒューがベースを弾いている。バンドは過酷とも言えるツアーの連続で、一種の躁状態がずっと続いていたようで、ニックはそれに耐えられなかったのと同時に新たな音楽的な冒険をも求めて脱退した。
このアルバムではゲストとしてロバート・フリップ(Robert Fripp)が参加している。一お客さんとしてロンドンの有名なクラブ「スピーク・イージー」でバンドの演奏を見たロバートは、当時すでにビッグ・ネームであったにもかかわらず自らゲスト参加を希望したようだ。録音時、ロバートはスタジオへ入ってきて、事前に曲を聴くこともなしにいきなり演奏を始めたのだとヒューは証言している。楽曲を書いたピーターは、「みんなや自分が、演奏することに興味を持つような曲にしようとした」と言う。そのため楽曲はより複雑に難解になっていった。
アルバムのタイトルは星の誕生に関わるもので、恒星の核で起きている基本的な原子反応変化を指している。ジャケットはポール・ホワイトヘッドの『バースデイ』という絵が使用された。ジョン・アンソニーがプロデュースと言うのは前作と同じだ。
「初めてプロの演奏家としての自覚を持つようになった」アルバムだとピーターが語る「Pawn Hearts」(1971)では、バンドは、大きく突き抜けてしまった感がある。プログレという狭いカテゴリにおいて孤高の地位を築いてしまったとも言える。録音にはロバート・フリップが参加しているが、それを見つけることはかなり難しい。彼の強い個性をもバンドの音楽が飲み込んでしまっている。プログレ雑誌などで取上げられる時は必ずと言っていいほどこのアルバムである。プロデュースはジョン・アンソニー。ジャケットはポール・ホワイトヘッド。タイトルはチェス用語のもじりとも「管楽器のパート(Horn Parts)」からアナグラム的な感覚でもじったものとも言われている。1971年9月にトライデント・スタジオで録音。このアルバムで欧州での不動の人気が定着した反面、ライブでの「定番曲」(例えば『Killer』)に対する強い要求などでフラストレーションを溜めていった結果3度目の解散をした。メンバーは疲れ果てていた。
by BLOG Master 宮崎