Sofa Sound Journal 4月度 "ZX marks the spot" |
Posted: April 30, 2012 | Author: sofasound | Filed under: Uncategorized | Comments
今月のエントリーは、ちょっとばかり音楽とは脱線したものだが、我慢してくれ。きっと、何人かは興味があるだろう、と思う;しかし、スマートフォン、タブレット、衛星ナビなどのモダーンな世界に熱中している、また、熱中してきた人たちにとっては、異質なものだろう。私は、以前の時代の出身なのだ。
先日、そんなヲタク心な性分が、ZXスペクトラム・コンピューターの30回目の誕生日をお祝いしたのだ。30年? 昨日のことのようだ、一生前のようでもある...。
ザ・スペクトラムは、ハミル家における最初のホーム・コンピューターだったし、その到来は、音楽制作の仕事における継続可能な未来を実際に持ち得るだろうモダーン・ワールドへの移行を記したのだった。
最初に私がそれを使ったのは、自分の顧客メンテナンスのためで、そしてすぐにかつ著しく、ソファ・サウンドのメイルオーダーのデータベースのための保管場所となった、それまでは、それは、カード・インデックス・ファイルで維持管理されていたものだったのだ。
スペクトラムでの仕事はいつも少しばかりでたらめな経験だった。私が使っていたモニターは、古い白黒のソニーのトリニトロンで、側面にVdGGのロゴを貼っていたのだが、それは1970年に、楽屋でワールド・カップを見るために買ったものだった。(信じられないことに、それは未だに私の所有物だ)オンボード・プログラムなんてものは、もちろんなく、それらは - そしてデータは - ポータブル・カセット・プレーヤーから読み込んでやらなければならなかった。もし、私が正しく思い出しているのなら、プレーヤーが危なっかしければなおさら、安定した結果を得なければならないようだった。音量設定は重要で、通常、ことが適正な動作となる前にかなり多くのトライを行ったものだ。
後に、私はスーパードライブを持った。それはフロッピーのようなものではなかったけれども、小さなテープ・カートリッジをベースとしたシステムだった。たくさんのコピーが必要だった。テープはいつも壊れてしまっていたからだ。
印刷は、最初は、小さな感熱式のちょっとしたキットで、同じようにきわめて奇妙なものだった、後に私はちゃんとしたトラクター・フィード方式のプリンターを入手したのだが、そいつを、ZXにきちんと認識させ、かつ認識させ続けることは、単純な作業、と言うにはかけ離れていた。
全く奇妙ではあったけれども、これはちゃんとしたコンピュータであったし、私にとっては、私たちが今いるところへと続く長い航跡の始まりであった、極めて出来事次第だが。
スペクトラムの最大の問題は、キーボードだった。小型でゴム製のレイアウトの。次のホーム・コンピューターははるかに満足のいくキーボードを備えていたし、それなりの仕方で、とても上手く組み立てられており目的にフィットしていたキットの一部だった:アムストラッドPCWは、疑いなく、アラン・シュガーの最良の製品だった。(アムストラッドには、何年もの間いくつかのきわめて奇妙な他の製品もあるけれど....。)
アムストラッドは、顧客管理とデータベースものも同様に扱うことはできたけれども、ワープロ以上の自負は持っていなかった。オール・イン・ワンのプロセッサー、(少しだけ普通でない)ディスク・ドライブとモニターのユニットとして、それは驚くほど頑丈だった。それはアップルあるいはBBCですらなかったが、それは間違いなくその仕事をしたのだった。
けれども、狼煙はすでに上がっていた。そのコンピュータたちは、音楽家にとってこれ以上にさらに、さらにもっと便利なものになり得たのだ。
私の最初のシーケンシング(とその残り)の現れは、ポール・リダウト経由であった。当時、これが彼のメインの道具だったのだ。彼は前述のBBC製品の一つを持っていたのだ。すぐにアップル製品に移っていったのだけれどもね。
これら両方とも、私にとってははるかに遠い - そしてはるかに高価な - ステップだった。しかし、まだもう一つの独特のユニットがまさしく支払いに見合ったのだ:アタリのSTだ。これは表向き、と信じているが、ゲーム・マシンとして設計されてはいるが、その主要なコーリング・カードはMIDIポートを、入力と出力を、組み込んでいた。そう、それは、それらの音楽ソフト作者たちが、それを素晴らしい馬車馬に仕立てるべくそこに仕込んだものであり、それはそうなったのだった。そいつのグラフィックスの能力は同様に私がソファ・サウンドのニューズレターのために使うことができるものだった。
(私が使った音楽ソフトはPro16だった。これはPro24となり、やがてCubaseとなった。それは今日まで私が支持するものだ。若いころに捕まえたのさ、あぁ?)
このマシンは - あるいは、思うに、それらのいくつかは、あとからアップグレードしたものですら - 私をとても、とてもよく助けてくれたし、よく覚えている。それはMIDIのタイミングの観点から大盤石であった。けれども、ことを進めるうえで、進まなければならなかったし、その時以来、財政的にかなりの苦汁をなめた後で、私はMacマンとなった。
それは、快適でまっすぐな世界だ。本当に、そして、まったくもって、一人で音楽作業をすることに対して、少なくとも4つか5つのモデルを通じてその根っこまで掘り下げたことについて、何の悔恨もない。そしてもちろん、最近、売りとなっている、そのパワーと柔軟性は、目覚ましいものである。
しかし、この手短な回想において、私はむしろ最初の3つの、私の進んできた道にセットされた、少々当てにならない、コンピューターたちに興味を持った。安(安っぽ)い、愉快で見栄を張らないものたちに。私はそれらで仕事をした(時々は手こずったように感じたこともあるが)経験を取り替えたりはしないだろう。
そして、あのゴムのキーを持った黒い箱が私の人生に入ってきてから、ほんの30年ばかりしか経っていないのだ。驚くべきことだ。
私は、自分が所有していた個別のモデル番号を覚えているほどヲタクすぎてはいないし、記憶のいくつかは少々あやふやだ;しかし、もし誰か、こいつに興味を持ったならば、すべてのコンピューター・レトロについて、このサイトを推奨できる。
そして最後に、いや、私は、これらのマシンのどれ一つにおいても、どのようなプログラミングもやろうとしたことはない。私のそれに対する時間は、1967年にビッグ・ブルーの臨時従業員としてのものだ。私は、メインフレームをリースしている会社のために、在庫管理と給与関係を書くために雇われたのだ。パンチ・カードだったよ、まだ! 今や、それは“本当に”違う世界だった...。
---------------------------------------------------
今回のジャーナルは、ピーターの使用してきたZX Spectrum(左の写真)を初めとした様々なコンピューターを巡る回想。日本では馴染みの薄い名前も出てきたりしますが、実に1980年代前半からの家庭でのコンピューター導入は当時としてもかなり先進的だったのではないでしょうか。日本ではまだBasicとかMSXパソコンが多く、NECも88シリーズを98シリーズ以上に売っていたように記憶しています。大学ではパンチカードのコンピューターが現役でしたし、情報科学の授業ではFORTRAN77やCOBOLが教えられていました。MS-DOSが日本で普及したのはもう少し後だったように思います。
それにしても、ピーターがビッグ・ブルー、つまりIBMの臨時従業員として働いたことがあるとは知りませんでした。1967年ですから、「臨時従業員、嘱託(temporary employee)」とはいえ、むしろ現在でいうところのアルバイトに近いものだったのではないでしょうか。なぜなら、ピーターは、1967年はまだ18歳か19歳で、大学生だったはずですから。
by BLOG Master 宮崎