Sofa Sound Journal 2011年2月 "Between Worlds" |
「世界の狭間で」
投稿日:2011年2月27日
著 者:sofasound
とうとう、「ア・グラウンディング・イン・ナンバーズ」のリリースまで、ほんの数日を残すところとなった。私は今現在、いくつかの異なる世界の間に捕らわれている。明らかに、リリースを待ちながら、それに先立つ様々な電話やEメールでのインタビューを通じて自らの道を推し進めている;次回のツアーについて考えながら、それに向けて私自身の準備を始めている。技術的に、音楽的に、気持ち的に;最新のソロ・アルバムのレコーディングについてのボールを転がし始めている。近頃は、昔のソロ・アルバムの録音よりは少しゆっくりと、狂騒的なVdGGの録音での向こう見ずな爆発とは逆に、徐々にプロジェクトの勢いを増していきながら始めるのだ。今はまだ、楽曲のアイディアや断片を組み立てている段階にあり、そういった事を通じて、私がどこにおり、どこへ向かおうとしているのか、という段階へと移行していくのだ。私は、VdGG楽曲のための個人練習にフルに取り掛かる時までには、(ソロ・アルバムの)明瞭な構想が描けていることだろう。おぉ、その通り、やらなければならないことが沢山ある!
「世界の狭間」のこの瞬間に、「ア・グラウンディング」の録音が始まった同様の時期のことについて書こうとしているとは、とても興味深いことかもしれない。
最近は、VdGGの活動を行う時はいつも詰め込まれた激しい時間となっている;それゆえ、私達がどこへ向かうのかについて、前もって明確なアイディアを持っているということが、決定的に重要なこととなっている。これは、とりわけ、私達が取り組もうとしている新しいマテリアルの場合において顕しい。昔であれば、リハーサルの場所に着いて、私がソロのライブ演奏をしてみせたりや、テープに録音したデモを聞かせたりで、その場でそういったものを披露したものだった。いつも、極めて沢山の「我々はこっちからこっちへと移さなければならない、どうにかして...」ということをそこでやっていたのだ。トリオにおいては、私達は今では物事をむしろ異なるように行い、見つけている。
録音の数ヶ月前に、まだ日程さえ押さえる前の段階で、私達は素材のやり取りを始める。CDやオーディオ・ファイルが私達の間で回され、(ほとんど)完全に羽の生え揃った状態の楽曲のアイディアから、ランダムなリフやシーケンス、にいたるまでがそこには含まれており、すぐに純粋な音響的なサウンドスケープとなっていく。とりわけ、HBと私はお互いに並行して作業を行い、満足いくやり方においてはぶつかり合うように思える断片を一緒にし、元々のアイディアを微妙に異なるバリエーションへとワープさせるのだ。
初期の段階では、そこに含めるのに、どれを最有力候補とするのかを定めるのに、差し迫ったプレッシャーはない。けれども、正直に言えば、有力候補たちは - そして、そうやってやってくる作品の趣旨のいくばくかは - 直ちに自らを知らしめることとなる。このアプローチの最終結果は、私達が録音の瞬間に達した時に、効果的に、持続した期間とその中に含まれる集中のための無言の会話の中に私達が入り込んでいくことで、速やかにアレンジメントのプロセスに移行していくことである。(それは、楽曲の形が、ドラムスのパターンがそこに現れてくるまでは、完全に確立されてはいないということに言及することなく進行するし、また、それら(ドラムスのパターン)は、私達が一時に全員同じ部屋に揃って始めて現れてきて、アクティブとなる。)
通常、極めて沢山のファイン・チューニングがそれぞれの楽曲に対して、バッキング・トラック作成の段階では行われる。また、しばしば繋ぎのセクションは、未だこれから書かれたり、時には演奏されてみなければならない。そして、全てがそこに出揃うまでは、何事も片付いたりはしないのだ - 全てのオーバー・ダビング、すべての歌詞と歌入れといったものだ。実際、いくつかのものは、「ア・グラウンディング」のミックスの前の最後の週に於いてもまだ一緒にすることで魔法のようなことが起きていたのだ...。
とにかく、私がこの散漫な長広舌で言いたかったことは、このマテリアルに取り組んでいる時には、私達はトリオで演奏し、録音し、私達は長く、ゆっくりと考え、私達はすばやく行動する、ということだ;両方のケースにおいて、私達は絶対的に集団でそう行動したということだ。この特定の成果についての証明は、もちろん、もうじきあなた方が手にするだろう!
パット・モーランについて、一言、二言言っておくべきだと感じている。彼は、エンジニアにしてプロデューサーであり、先月亡くなった。彼は、VdGGの歴史の中で、とても重要な人物であった。
彼は、(ソロ)アルバム「カメレオン」で私達と初めて一緒に仕事をした。彼がロックフィールド・スタジオでの頭角を現し始めた頃で、そこのメインの常駐エンジニアになろうとしていた。その頃のロックフィールドといえば、誰かの朝の休憩が、デイヴ・エドモンズの馬鹿でかいオーバーダビングされたギターのこれまた馬鹿でかい再生レベルによって台無しにされたり、夕方のセッションはしばしばオーナーの一人であるキングズレイ・ウォードの、彼のみに可能な効果たっぷりの、ど派手な到着によって中断されたりしていたものだった。
「カメレオン」とそれに続く「サイレント・コーナー」は、ジョン・アンソニーによってプロデュースされた。その次にロックフィールドで録音されたアルバム「ネイディア」は、セルフ・プロデュースだった。そして、パットは、もちろん、コントロール室にいた。どうかすると、誰であろうと- 度が過ぎるほどにでかすぎる - ラップ・スティール・ギターのソロの猛攻撃から避難してきてみると、パットは、断固として、コントロール・ルームに居続けているのだった。
しかる後、パットはその後に続くVdGGのレコードの全てで仕事をした。(1975年の)再結成の最初の3枚用のバッキング・トラックとミックスにおいてだ。彼は、それ故、我々がレコード製作の荒ぶる波間を乗り越えていく上でかけがえのない導き手であったのだ。彼はいつも素晴らしく共感的な存在であり、期待されていた以上に、遥かに深く音楽の核心の中まで到達していた。私は、特にちょっと「良い」演奏をしたときの、彼の「精神病的な反応だ!」という叫びをずっと覚えているだろう;そして、実際には、彼の「このサキソフォンの意味は何なんだい?」という質問を。
彼はまた、一度サウンド・マンとして、カナダ/ニューヨーク・シティへの遠征において、私達のツアーにも同行してくれた。
パットは本当に素晴らしい男だったし、私は彼のために乾杯しよう。
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ということで、お待たせしました。2月度のジャーナルの日本語版をお届けします。
新作の録音についての回想と、パット・モーランについての回想とが綴られています。もちろん、新作については、きっと次のジャーナルやニューズレターの中でも大いに語られることでしょう。それにしても、発売日まであと10日ほどとなりました。待ち遠しいこと、一日千秋の思いです。
by BLOG Master 宮崎